先日古い友人(女性)と久しぶりに会うことになった。
話しの内容は20年勤めた会社を辞めさせられたというものだった。
彼女の話しによると、会社を辞めさせられる数年前に仕事のストレスが原因でうつ病を患い、1年の休職を経て仕事に復帰したのだが、解雇同然の仕打ちを受けたのだという。
20年も会社に仕えたにも拘わらず身も心もズタズタになってしまった彼女の絞り出すような訴えを聞いて、私は筆を取らずにはいられなくなった。
目次
超一流企業に入社し順風満帆だった
彼女が勤めていた会社は誰もが知っている超一流企業だ。
ブラック企業のイメージは一切無いし、個(従業員)を尊重し待遇面や労働者に寄り添った様々な制度により、働く者にとってこれ以上恵まれた会社は無いのではないかと思わせるホワイトなイメージの会社と言っていいだろう。
彼女が新卒でその会社に入社した当時はバブル期で1,000人近い新入社員が採用されたという。
彼女は営業事務に配属され、学校で学んだ経理を活かすこともでき、思い描いた理想の社会人をスタートすることができたのだった。
バブルが崩壊し環境が一変する
入社して数年間は、うなぎ上りに給料は上がり、会社の同僚や先輩、上司にも恵まれ公私ともに順風満帆が続くかに思えた。
しかし順風満帆はそう長くは続かなかった。
入社後数年でバブルは崩壊し、彼女が勤める会社もその煽りを受けた。
幸いにして会社の業績に大きなダメージは無かったが、不採算事業の撤退や組織の統廃合、新卒採用の激減により、彼女の働く環境も大きく変化した。
20代のうちに同期入社の女性たちはその殆どが寿退社でいなくなってしまい、代わりに派遣社員達が彼女の同僚や後輩となった。
さらに、会社は経理、人事、購買などのルーチン業務をアウトソーシング化しコスト削減を図るようになった。
30代の平社員がマネジメント業務を行う苦痛
30代になると彼女が携わっていたルーチンワークの殆どは業務委託や派遣社員に回り、彼女はそのマネジメント役に任されるようになった。
女性30代でマネジメント役と言えば聞こえはいいが、役職は平社員のままであり、委託業務や派遣社員の責任は全て彼女が追わなければならない割の合わない仕事だった。
なぜなら下からはチクチクと針を刺されるかのごとく突き上げられ、上司からの圧力は留まることはない中間管理職さながらの板挟み状態であったからだ。
それでも彼女は上司の命令に従いながら、下からの突き上げに屈することもなく10年間も歯を食いしばって耐え抜いたという。
しかし彼女のストレスは既に限界を超えていたのだった。
仕事のストレスを10年も受け続けうつ病を患ってしまう
10年もの間、人が精神的なストレスを受け続けるとどうなるのだろうか?
適度なストレスであれば、回復して強くなっていくのが普通であるか、過度のストレスを受け続けると何らかの病気になってしまうのは当然だと言える。
ある日彼女の言動が普通ではないと悟った上司に病院に行くように勧められたことがきっかけで、彼女はうつ病と診断された。
それまで彼女は仕事に没頭するがあまり、自分の変化に全く気付くことがなかったという。
気付かなかったからこそ、うつ病を患ってしまったと言えるのかもしれない。
うつ病を理由に配置転換させられた。しかし新しい組織で待っていたものは
うつ病と診断された彼女は上司と人事部と相談し、違う部署に配置転換させられることになった。
新しく配属された組織では、今までとは全く違う未経験の仕事であった。
係長という役職にもかかわらず、若い社員と共に学び働く日々が続いた。
それでも彼女のうつ病は完治することは無かった。
脱力感や集中力の低下により仕事のミスや納期の遅れが続き、体調不良により度々休む状況が続いた。
さらに、上司や同僚達は彼女のうつ病を理解することはなく、それどころか度々バッシングを受けるようになっていた。
それが彼女の新たなストレスとなり、うつ病の症状はさらに悪化することになった。
気が付いたら線路に飛び込もうとする自分が・・・
通勤電車の中で勝手に涙があふれ出る、電車のホームで線路に飛び込もうとする自分に気付き我に返る、そんな日々が続くようになった。
かかりつけの医者からは休職することを提案された。
彼女は診断書を持って、1年間の休職を人事部に申し出た。
休職中は仕事のことや何も考えないように努め、好きなように過ごした。
旅行に行ったり、外食を楽しんだり、普通の女性が休暇で過ごすようなことをして楽しんだ。
定期的に病院にも通い、うつ病の症状も改善されていった。
しかし、休職の期限が迫るにつれて、彼女の不安は少しずつ大きくなっていったという。
彼女は既に会社を信用していなかった。
またうつ病を再発させてしまうのかもしれないというトラウマが、彼女の不安を掻き立てるのだった。
休職の末に待っていたもの。それは自己都合退職と称した解雇だった
しかし彼女は働かなくてはならなかった。
30代にして建てた家のローンの支払いや、病気がちな両親のためにもお金が必要なのだった。
休職の期限が終わり彼女は会社に復帰した。
配属された先は「人事部付」で、人事部の一室にある閉鎖された会議室のような部屋にあった。
部屋の中には長い机が口の字に並んでいて、彼女の他に10人程のメンバーが在籍していた。
パソコンさえも支給されず、決まった仕事は無かった。
時々、書類を封筒に詰めるとか、書類を整理するといった単純な作業が回ってくるだけの部署だった。
人事の担当者からは正式に配属が決まる迄に間、社会復帰に向けたリハビリとして暫定的な措置なのだと聞いていた。
人事の担当者とは毎日のようにカウンセリングと称する面談を行った。
しかし、そのカウンセリングで彼女に突き付けられたのは、「次の職場で仕事の成果を達成しなかった場合、自己都合で退職する」という覚書への署名だった。
これは実質的には解雇処分と言える仕打ちだ。
彼女はその覚書に署名することを拒んだ。
それでも人事の担当者は面談の度に署名を迫る、そんな日々が何日も続いた。
次第に彼女は自分が会社から必要とされない人材になってしまったことを悟ったという。
彼女は覚書に署名し、次の配属先が言い渡される前に辞表を提出したのだった。
未だに次の人生をスタートできないでいる
現在の彼女は退職後5年が経過しているにもかかわらず働くことができない状態が続いている。
自分は何の仕事をやっても上手くいかない、社会から排除されてしまったというある種のトラウマから抜け出すことができないのだった。
また、深刻なのは今でも時々自殺したくなる衝動に駆られることや、うつ病の症状が定期的に表れるという。
しかしそれでも働かなければならない。
その為にもカウンセリングに通い始め、ゆっくりとではあるが社会復帰を目指すためのスタートを切り始めたのだった。
最後に
以上は彼女の話しを要約して書かせていただいた。
実際にはかなり生々しい話しもあったのだが、あえてその部分はオブラートに包んだ表現に変えさえていただいた。
彼女に再開したとき、激やせし小さくなった姿に驚きを隠せなかった。
体重が20キロも落ちてしまったと話しながら「痩せることができてよかった」と皮肉まじりの笑顔が痛々しかった。
約2時間の会話だったが、終始私はただうなずきながら彼女の話しを聞くことしかできなかった。
そして、彼女は最後に言った。
「私は会社の期待に応えるような仕事は出来なかったと思います。それでも、こんな私に対して丁寧に指導してくださった上司や先輩が何人かいて、せめてその方々にお礼を言えなかったのが心残りです。」
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